95点『車輪の国、向日葵の少女』◆一言◆
正義と慈悲と愛の物語。社会の枠にとらわれない価値観のため、プレイヤーにとって「痛い」シナリオもある。1周目を真剣にプレイすべき作品で、周回を重ねるごとにその価値は下落していくであろう。ノベライズものとして明確に訴えかける何かがここにある。
◆考察◆
この物語には、教訓的な要素が強いものと感動的な要素が強いものの2つがあると思う。単純に比較すると、さちシナリオは前者、夏咲シナリオは後者の特長が色濃く出ており、灯花シナリオはその中庸と考える。端的に見て、さちシナリオの評価が最も高い。というのも、架空世界にありながら、現実世界の若者が内包する問題を、如実に取り上げているからである。だからこそ、プレイヤーの中にはこのシナリオを「痛い」と感じる人もいると思う。
~第二章 夢~『1日12時間しかない義務』
I cannot afford to waste my time making money.
‘金儲けのために時間を無駄にすることなどできない’
(直訳***金をつくる時間のために浪費する余裕がない)
時間とお金と夢についての話。
「そもそもどうしてそんなにお金にこだわるんだ?」
「お金を使うと時間を短縮できることが世の中には沢山あるからだよ。」(第二章より)
当初、さちは金銭第一主義に凝り固まっていて、お金で事を運ぼうと躍起になっていた。だが、世の中にはお金で買える物と買えないものとがある。たとえば、さちの持つ画才は、到底お金で量れるものではない。そんな特異な才能を持っているにもかかわらず、さちは社会に脅え、夢を諦めてしまっていた。
まなは、さちの夢や才能、苦しみを知って、なお、ともに歩み、夢の実現を願っていた。そして、まながさちのもとを自発的に去ろうとする時、ついにさちは、「まなの願いは私の夢の実現で、決してお金で買えるものじゃないんだ」ということに気づく。
我々の世界には、時間や夢といったお金では買えない無形の何かがある。この世界はそれに矛盾し、時間をお金で取り戻すということができる。果たしてこれが正しいかどうかは分からない。しかし、「貴方は時間を有意義に使っているか」と聞かれると、自分の心の奥底にちくりと「痛い」ものがある。だからこそ、自ら更生の意志を示したさちと、それを促すために自らを犠牲にしたまなに感動するのだろう。お金と時間が我々の身近なところにあるため、この展開に息苦しくなったりするのは仕方ないことだと思う。
なお、まなという存在は、‘子供は大人の父’と銘打つ次章への架け橋になっているのではないだろうか。
~第三章 食卓~『大人になれない義務』
The child is father of the Man.
‘子供は大人の父’
家族愛についてのこと。
「生みの親より育ての親」とはよく言ったものである。育ての親の元には、どんな形であろうとも、ふつうは家庭が象徴するところの食卓がある。いくら冷たくとも、灯花はそれを壊したくなかったのだと思う。そして、長い葛藤の末、彼女は生みの親も育ての親も選ばないという選択をとった。これは少し卑怯かもしれない。
しかし、自分一人で物事を少しずつ決めていくというのは、即ち子供からの脱皮を表す。親はそれを心から喜ぶ。幼虫から蛹へ、蛹から成虫へ。その過程があってこそ、子供という人間は、大人へと成長していくのだと思う。一息に子供から大人という飛び方はしない。
それに、子供あってもその居場所なくして家庭というものは成立しないと思う。だからこそ、子供は偉大なのであり、‘大人の父’と言えるのではないだろうか。
『「大人と子供って……
けっきょくただの人でしょう?」』(あかべぇそふとつぅOHPより)
大人と子供という分類は、誰が境界を決めたわけでもない曖昧な領域である。いつまでが子供で、いつからが大人かなんて線は、本来であれば便宜的なもののはず。それなのに、大人は子供を年齢で区分し、乳児と幼児と少年を区別してきた。そして、子が親の思うがままに染められていく「色づけ」もまた、長い歴史の中で絶えず繰り返されてきた。しかし、それは必ずしも理に叶った慣習ではない。親としての大人が正しくない場合もあるからだ。
さて。車輪の国では、親が法的に「正しい」と認められたならば、義務を負った子はそれに従わなければならないが、ここに矛盾を見い出すことができる。国家のものさしである法が正か誤かというのはもとより、親子のどちらが正しいかというのは、車輪の国の法律では、必ずしも定める事ができないからである。親子、兄弟姉妹、そしてそれらの集合体である家族というのは、制度化された形態よりも慈悲の精神でもって成り立つと思う。ましてや、親が正しいか、それとも子が正しいかなんて、第三者である国家が介入できる余地はごく僅かの例に留まるだろう。車輪の国の法律は、我々の世界の尺度で見ると、便宜的な決まり事に過ぎないのだ。
車輪の国のように、法的に子供を囲うのは、私たちから見るとひどく滑稽に映るかもしれない。そこに家族愛(慈悲のようなもの)が在るとは到底思えない。しかし、現実世界に話を戻して考えてみるといい。「家族をいつも頭の片隅で考えてやっているか?」と問われれば、私も自信をもって「Yes」と言う事はできない。だからこそ、この章も心に響くのであろうか。
一連の流れからして、この章は、次章『恋愛できない義務』への繋ぎという役目も果たしていると思う。恋愛あってこその家族という意味で、「家族」という語がその橋渡しになっているのではないだろうか。
~第四章 手のひら~『恋愛できない義務』
What force is more potent than love.
‘愛よりも強いものはあるか’
恋愛についてのこと。
総じて人は本性を曝け出すのをひどく怖がる。自分が輝いている時はありのままを呈するが、そうでない時は隠そうとする。ましてや、好きな異性にはなおさらだ。だからこそ自分の長所ばかり見せたくなるし、相手のことが優れているように見えるのも無理はない。
しかし、夏咲には、異性に好きと言うことすら許されていない。異性に長所を見せる云々は収容所送りに値するからである。だから、彼女は人から避けられるあるいは避ける行為を徹底することで、これまで生きてこられた。逆説的に考えると、「恋愛できない」と分かっていても、最愛の人に会いたいという希望だけを頼りに生きてきた。結果として、樋口健は森田健一として故郷に帰ってきたことを、当の本人の口から告げられた。
その途端、どうしようもない絶望と羞恥の念が込みあげてきたのは想像に難くない。嬉しいはずなのに抱きつくことができない、触れる事もできない……それが悔しい、悲しい。だが、その自己嫌悪が最高潮に達したとき、健ちゃんは「いままで独りで、よくがんばったね」と言って抱きしめる。それから、何もかもがなっちゃんの中で変わっていく。
多分、愛にとって一番大事なのは、愛する人へ「大好き」と言うことだと思う。ふつう、法や社会ではこの感情は縛れない。この世界の矛盾はその一点に集約されている。愛する人はおろか異性に触れることさえ許されない刑罰なんて、我々には到底理解できないし理解したくもない。だが、人を恋愛から遠ざけるには、最良にして最悪の方法(殺すというのはなしにして)だと思われるのも事実である。現実世界では到底考えられないこの状況が正しいかどうか、私は首を縦に振ることも横に振ることも出来ない。
ここまでの3つの章は、身近に思える「夢、家族、恋愛」を逆手にとった設定を用いることで、我々の世界と似てはいるが何かが変質した世界を構築することに成功している。3章通して、るーすぼーい氏のセンスのよさがキラリと光る内容になっていると思う。氏の魅力は、こういった虚構を巧みに操っていることにあるのではないだろうか。
~第五章 車輪の国~
I shut my eyes in order to see.
‘私は見るために目をつぶるのである’
社会についてのこと。
『どんな歪んだ世の中でも――正義と、慈悲と、愛の心は必ず守られる。』(第四章)
結びの章、すなわち二~四章を総括した章である。この章は、「正義とはなんなのか」ということを重点において語られている。いずれにしろ、正義と慈悲と愛というのは、明文化しても明確な規定が出来ないため、いかなる法の拘束力にも屈しない。しかし、社会は捻じ曲げられ正されるということを繰り返し、法もそれに追随する。つまり、社会とは人間による秩序の形態のことを指していると思われる。
There is no such thing as society.
‘社会なんてものはない(直訳***たとえば社会のようなものはありません)’
というのは社会に対する一つの見方であると思う。車輪の国のような定点化した社会は、もはや社会であるかどうかもあやふやで、おおよそ好悪の区別がつけられる世界ではない。しかし、我々の社会も時と共に変容するから、いつも正しいとは限らない。それを踏まえると、理想郷なんて人それぞれなのだ。私はここまでプレイして、「その時々の社会というのは、絶対幸福的な社会である。ゆえに、後世の人物が、その時代の善悪を判断してはいけない」というのが、氏の主張の根幹なのだと考えた。
さて、璃々子に与えられた極刑は、社会から逸脱するあるいは流れに完全に取り残されることだった。これは、車輪の国における最大の苦痛として表現されている。しかし、るーすぼーい氏は、璃々子を社会の明るみへ復帰させることで、自らが創り出した「車輪の国」を否定した。加えて、我々の世界で言うところの「法の象徴」である法月将臣を最期に退場させることで、法すらも絶対的に正しくはないとしたように思える。
見えるものは消え去るが、見えないものは永遠に存続すると聖書が言うように、未来は自分の手で描けるはずなのだ。
◆花言葉◆
本編では向日葵の花が多用される。その花言葉を充てるとするならば、
さちには、「情熱」がよく似合う。
灯花には、「愛慕」がよく似合う。
夏咲には、「あなただけを見つめる」がよく似合う。
璃々子には、「輝き」がよく似合う。
何から何まで車輪の国。つくづく巧いタイトルだと思ったものである。
◆音楽◆
総勢7人が手がけているが、ここで特筆するのはまつ氏。本人がサウンドノベルを制作しているためか、雰囲気が素晴らしい。
聴き応えがあるものは「reason to be」の名を冠する2曲、および「watch out」の計3曲。癖になる。
また、片霧烈火さんの主題歌は、ストーリーを短くまとめている感が伝わってくる歌詞で、非常に聴き心地がいい。
◆絵◆
有葉女史。表情が綺麗。そして笑顔が印象的。とくに夏咲。
◆エッチ◆
可もなく不可もなくといったところで、特筆できるようなシーンはない。最低限の回数、クオリティは満たしている。
とにかく夏咲の場合は、“繋がること”がシナリオのコアの部分なので、実用には程遠いと言える。Hに関してはFDのほうで補完していると考えたほうがいいだろう。
◆総評◆
総じて極上のシナリオを味わえたという感触。4つのシナリオが訴えかけてくるものは大きい。第五章に関しては、確かに急ぎ足になっているし、璃々子の演説で興冷めしてしまっていることは否めない。内容が主張の連続のために物語はそれほど深くなっておらず、下手をすると心酔と受け取られても仕方ない感もあった。しかし、それまでの3章はやはり別格。考えることを止めさせてくれなかった。
独立より収斂。そのパワーたるや、凄まじいものがある。
4つの章それぞれが1つのお話として成り立っており、互いの章とは異なる切り口を持っている。個々の出来は秀逸ではあるものの、それだけではいいお話に過ぎない。この物語の素晴らしい点は、章ごとにテーマを持ち、それらが独立した主張を展開していながら、クライマックスでは一丸となって、世界につぶてを投げつけていることだ。一見するとつながりを欠いているように思えるが、私は4章全てが繋がっていると思う。
勢いでグイグイと読者を引っ張る物語で、文章的な死角はあるものの、心情的死角はないに等しい。
相対的に見ても、間違いなく良作の部類に入る。ノベライズものでありながら、社会を噛み砕いてそのプレイヤーに正誤を問うたシナリオには、目を見張るものがあると思う。
【雑談】
レビュアーとしての出発点。色々と思い出深い作品です。